【第272回】アルゼンチン

カラファテの氷河に魅せられて

 またしてもカラファテに来た。アルゼンチンのパタゴニア地方だ。氷河歩きは意地であった。昨年、病気連絡ファクッスのため大変な心配をかけた妻も行くと言うので今度は二人旅だ。ここの氷河歩きは現地の旅行会社が綿密にお膳立てした企画に申し込むだけだ。
 湖上をボートで、赤茶けた岩石の近くに氷河のせり出した岸に渡った。ここに弁当を残しておき、氷河から無事戻ったとき食べるのだ。森林を抜けるのに20分、氷河と陸地の接点に出た。アイゼンを靴に取り付けてもらい、歩き方の指導を受け、氷河トレッキングが始まった。早朝から激しい下痢をしていた妻だが、氷河に入ったらピタッと下痢が止まったという。執念のしからしめるゆえんだろう。氷河は世界中から来た申込者、約15人のグループで、プロのクライマーが先頭と最後尾につき、アイスホールを避けつつ誘導して登るのだ。隠れ場所も、従ってトイレ休憩もないのだ。もちろんゴミなど落とせない。
 登ったり下ったり、視界は狭く青空が見えるだけ。引き込まれそうな碧色のクレパスとアイスホールを飛び越えたり、滑り落ちそうになったりしてスリル満点。大小のクレパスは太陽光を吸収して蒼白く、奥底深く、人間を惹き込むように輝いていた。20分ほどして急な登りになったとき、グループに落伍者が出た。見上げる氷河の大きさと険しさに圧倒され、ギブアップを決めた人たちだ。落伍者は年齢には無関係、私は70歳まじかだった。元気いっぱいの妻はほぼ先頭にいるので私は後方から写真を撮ってやることにした。上気したように赤くなった頬で若者のような足取りの妻は世にも幸せな表情、ガイドにピッタリ張り付いていた。
 周囲は蒼白く輝く氷柱の林。どちらに向かえば帰れるのかわからない。白と蒼の氷界で迷子になった気分だ。一人なら戸惑い、がむしゃらに歩きまわるだろう。距離にして20メートルはあると思える急な登り坂はアイゼンがあるとはいえ滑落の恐怖に駆られる。冒険心が完璧に満たされ、痛快さ極まる氷上の散策だ。登れど登れど氷の園、他には何も見えない。氷の中にいるとはいえ歩いているうちは暖かだ。途中プロの登山家による氷山ロック・クライミングの実演もあった。10メートルほどの垂直な氷壁を両手にピッケルを持って上下して見せた。まさに命がけのショー、見ている方も身体が凍った。
 帰路となり、「もうそろそろ地上か」と思うころ、先頭が氷の山かげをめぐって上がりだしたので、「や、や、また登るのか」、と覚悟した。なんと氷山のかげにポツンと木のテーブルが用意されているではないか。その上にウイスキーのボトルが…。そこでガイドの登山家が、歩いた人全員に氷河を砕いてオン・ザ・ロックのサービス。なんとも粋な計らいだった。1、2万年前のその昔を想像して味わう氷河ウイスキーなんて、それも氷河のど真ん中…。2時間たっぷり楽しんだ氷上の楽園だった。
 帰りの船を待つ間、せり出した氷河の正面の岩に座り、時々ごう音とともに崩れ落ちる氷柱を見ながら妻と2人で食べた持参のお弁当と1缶ずつのローカル・ビールの味ほど美味かったのは過去に記憶がない。
 船に乗る直前に妻はお気に入りのガイド(ロック・クライミングの実演をした人)に日本から持参の鈴のキー・ホルダーをプレゼントした。船が岸を離れたとき、そのガイドが妻にもらった鈴を嬉しそうに仲間のガイドに見せているのが見えた。「再びここに来ることができたらもっと沢山の鈴を持ってきて多くのガイドさんにあげよう」と言う妻の幸せそうな顔。
 妻は人生の三大事件の1つにこの氷河歩きを入れるという。1つ目は52歳でアメリカに渡り取得した「自動車免許証」。行動がグーンと広がった、と。2つ目はこれもアメリカで「還暦で取得した博士号」。死に物狂いの道程に価値があったと。そして3つ目のここ、「カラファテの氷河歩き」は61歳、ただただ幸福感に満たされたから、と。体調不良を蹴散らし、蒼く美しい氷河を、アイス・ホールに落ちる危険にさらされスリルに満たされながら自分の足で努力して登ったことは、望んでも簡単には得られない体験だったからに違いない。
 昨年、ここカラファテで病気のため三日間延長して泊った民宿に挨拶に行った。おばちゃんはすぐに思い出してハグ(抱擁)してくれた。言葉は通じないが背中に手をやって「もう大丈夫か」というそぶり。そして遅い昼だが、と言って飲物、鶏肉、ソーセージをご馳走し歓待してくれた。ここは一泊15ドルの安宿だったが客が少なかったこともあって2部屋使わせてくれた。病気の相談にのって頂き、腰をもんでもらったり、とすっかりお世話になったところだ。昨年思わぬ病魔に苦しんだここカラファテ、お蔭で病院の診療所をふくめ隅々まで知ったことを懐かしく思う。アルゼンチンと言えばカラファテ、生涯忘れられない宿の人たちの人情、そして碧白い大氷河。

せり出した氷河
左:アイスホールの傍に立つワイフ、右:せり出した氷河の正面。この氷河の表面を歩くのだ。

文:小川律昭

筆者プロフィール
<小川律昭(おがわただあき)> 86歳
地球漫歩自悠人。「変化こそわが人生」をモットーとし、「加齢と老化は別」を信条とし、好奇心を武器に世界を駈け巡るアクティブ・シニア。オハイオ州シンシナティと東京、国立市に居所を持つ。在職中はケミカルエンジニア。生きがいはバックパックの旅と油絵。著書は「還暦からのニッポン脱出」「デートは地球の裏側で!夫婦で創る異文化の旅」。

<小川彩子(おがわあやこ)>80歳
教育学博士。グローバル教育者。エッセイスト。30歳の自己変革、50歳過ぎての米国大学院博士過程や英・和文の著書による多文化共生促進活動は泣き笑い挑戦人生。「挑戦に適齢期なし」を信念とし、地球探訪と講演・発表の日々。著書は「Still Waters Run Deep (Part 1) (Part 2)」「突然炎のごとく」「Across the Milky Way: 流るる月も心して」ほか。
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